みやけ物語

出生

昭和29年9月27日、大阪市城東区で三男一女の第1子として出生。
父、福一は、岡山県井原市芳井町出身。母、恵美子は、岡山県高梁市備中町の出身。

父親は、ミシン縫製の技術者として町工場に勤務。
満1歳の時に淀川区東三国の市営住宅に転居。


大阪市立東三国小学校へ入学(昭和36年4月)

低学年の頃は、目立たないおとなしい子であったが、旭区に転居し、市立古市小学校に4年生から転校後は、快活な目立ちたがりに変身。そろばん塾や書道塾にも通う。

6年生の半ばからは、八尾市に転居。卒業までの半年間は、満員電車に揺られ電車通学。


八尾市立曙川中学校へ入学(昭和42年4月)

運動が苦手な私が、どういうわけか友達に誘われるまま、2年間、バレーボール部に在籍。レギュラーの座には最後まで入れなかったが、スポーツの楽しさとチームワークの大切さを学ぶ。


私立上宮高等学校に入学(昭和45年4月)

第一希望の高校ではなかったが、気をとり直して、もっぱらクラブ活動に専念。美術部の部長として活躍。油絵ばかりでなく立体オブジェや8ミリ映画も制作。

美術系の大学進学を目指し、予備校に通った時期も。生徒会副会長としても活躍。


創価大学法学部に入学(昭和48年4月)

東京でのひとり暮らしにあこがれ上京、大学内の寮生活がスタート。1年後に退寮し立川市内で下宿生活を始める。
1年生の時は、ギター部に所属。ほとんど音楽的才能のないことを思い知らされるも、演奏会のパンフレット、ポスター、立て看板制作に重宝がられる。

しっかり勉強した記憶は、ほとんどないが、学生時代を通じ生涯の友人を得るとともに、人生哲学の基礎を学ぶ。
この時期、父親は、自宅で穴カガリ加工所を起こし縫製業を自営。両親の汗水流しての深夜までの労働に支えられ、大学を卒業できたことは、いくら感謝してもしきれない。


東京都世田谷区役所に入庁(昭和52年4月)

第1次オイルショック後の不景気な時代。公務員試験は国も地方も軒並み採用減の中、唯一運良く採用試験に合格できたのが、東京都特別区の中級職。

翌年に内部の能力認定試験に合格し上級職に昇格。福祉職場を希望し、世田谷福祉事務所の社会福祉主事(ケースワーカー)に。4年間主に生活保護法に基づく援護や保育所の入所措置事務を担当。

この時期に社会人としての基本を学ぶとともに、社会福祉の第一線で様々な出会いを通じて貴重な経験を積む。後に地方政治家として歩む原点となる。


大阪府庁に入庁(昭和56年4月)

標準語も板についてきた頃であったが、当時の大阪府庁行政職採用試験が年齢制限ラストであることを知り、受験。その年から採用人数が大幅に増えたことから、再び運良く合格し、世田谷区役所を退職。故郷大阪に帰る。

当時の実家は、摂津市から東淀川区に移転。府庁での最初の配属は、淀川府税事務所。府税の滞納整理に従事。主に差押財産の公売事務を担当。不動産公売に実績を残す。

3年後、本庁に転勤、企画部府民文化室に配属。文化行政施策の推進を担当。数多くのイベントや全国会議で調整手腕を発揮。

さらに3年後、土木部交通政策課に転勤。連続立体交差事業や大阪モノレール事業の推進に携わる。係長職に昇格後は、建築部開発指導課に配属。課内の法務大臣と呼ばれ、都市計画法に基づく開発許可基準の運用や行政訴訟、行政不服申立関係を担当。


大阪府議会議員選挙に初当選(平成7年4月)

すでに公明議席を失っていた東淀川区選挙区で、多くの党員、支持者の皆様のご推薦をいただき立候補。

前年12月末に14年近くお世話になった府庁を退職し、3ヶ月余りの短期決戦。定数2の厚い壁に議席奪還に挑む。

その矢先の1月17日に阪神淡路大震災が勃発。幸い当区の被害は少なかったものの、選挙戦は一時中断。被災者支援に走る。

そして、迎えた投票日、生涯忘れえぬトップ当選を果たす。どこまでも庶民大衆に奉仕していくことを深く決意。

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